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禅語に学ぶ無心~ただただ生きる~

禅語に学ぶ無心~ただただ生きる~

2015年6月15日 • Mind & Heart

禅はお釈迦様が実践した座禅(瞑想)などの修行を行うことで、自分の中にもともと備わっている仏性に気づいていくという仏教の宗派。座禅だけではなく、日常生活のすべてが禅の修行とされ、こだわりを捨てて“無心”を追求します。

“公案”と呼ばれる禅問答は、常識にとらわれた心や既成概念から解放され、思考を超えた本質を見る心の目を磨く修行法です。禅語は、幸せに生きるための習慣や、考え方のヒントがたくさんつまった深くて優しい「生きる知恵」。その中から、私たちが心安らかに明るく生きていく教えをご紹介します。

【 庭前柏樹子(ていぜんのはくじゅし) 】

一人の僧が趙州和尚に聞いた:「達磨大師が仏教の真髄である禅を伝えるため、インドからはるばる中国へ来られた意味とは何か」

趙州和尚は応えた:「庭前の柏樹子(庭先の柏樹だよ)」

僧が続けてたずねた:「和尚、私は禅とは何か、仏法とは何かと聞いているのですよ。即ち心の外の物で答えないで下さいな」

趙州和尚:「私は決して心の外の物で答えてはいないよ」

そこでまた、僧が問う:「達磨大師が仏教の真髄である禅を伝えるため、インドからはるばる中国へ来られた意味とは何か」

趙州和尚、また厳然として:「庭前の柏樹子」と応えた

常緑樹の柏樹は、ただ淡々とそこにいる。賞賛されようとするわけでもなく、見てくれなくても、ほめられなくても、木陰を作って誰かを憩わせても、何もなくただただ、堂々と毎年大きく茂っている。意志があるようでない。ないようで大いにある。

心の外・内とか、禅、仏、悟りという理屈は捨てさった相対的な物の考え方、思慮分別を超えた「無心」の心を趙州和尚は示そうとしました。無心の状態ではどんな言葉も“雑音”に過ぎないのです。とらわれず、まどわされず、自分自身を精一杯に生きる。

あなたが生きている、それだけで素晴らしい。

答えは、全てそれぞれの生き方の中にあるから、何かになろうとしなくて良いのです。誰かになろうとしなくて良いのです。

真実を見る目を養い、本質を理解し、自分に与えられた役割をまっとうすることが大切であり、結果や評価にばかりとらわれたり、答えを求めたり、人から言われてから行う行為は、まだ真実の自分ではないということです。自分自身を生きると、命が輝き出します。やりたいことがわき起こり、喜びがあふれて、例え感謝されなくても人々の役に立てれば、それでよいという奉仕の心で自分の今を生きられます。

このことを、ヨガでは行いのヨガ=「カルマ・ヨガ」と言い、自分の使命を義務=ダルマと言います。結果や見返りを求めず、ただ淡々と行いそのものに集中することで業=カルマを解消していきます。

雲門禅師はある僧から「仏様(尊いもの)とは、何か?」と問われ、「乾屎橛(かんしけつ)だよ」と答えました。乾屎橛とは、汚物を処理する瓦のこと。どんな不浄と言われるものでも、仏として光明を放つと言います。汚いと嫌われても、けなされても、どんな役割でも自分の命をただただ、生きている。

この世に存在するものは、すべて意味があります。

どんな自分も、どんな今もまるごとOKです。視界や雑音などの外側から、自分の内側に意識を向けて寄り添って、その深くにある静かな光を感じて、広げてあげましょう。常識や過去の教えにとらわれない素直で自由な心を持つことは、心を無限に広げてゆき、“無心”で毎日を心穏やかに過ごせます。

いつも、あなたが微笑んでいられますように。

参考文献:
境野勝悟著「心がスーッと晴れる一日禅語」(三笠書房)
大田由紀江著「イチから知りたい!仏教の本」 (西東社)


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