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禅の教えから学ぶ、心を整え“幸感力”を磨くための食事時間

禅の教えから学ぶ、心を整え“幸感力”を磨くための食事時間

2015年12月8日 • Food & Drinks, Health, Mind & Heart

私たちが毎日あたりまえにしている食事。食べ物に困ることなく、好きな物を選べるという、一見豊かで便利な日常です。しかし、忙しさや情報の多さゆえに食事中も別のことを考え、別のものを見て、別のことを話していたりしないでしょうか。

禅の曹洞宗では食事も大切な修行の一つとされ、作法が細かく決められています。喋らず、音を立てず、残さず、口の中に詰め込まず、口の中に食べ物が入っている時に他の食事に箸を伸ばしたりせず、一口ごとに箸を置く。箸を置く時も、器を取る時も、箸先は自分の方に向ける等々。これは、食事は空腹や欲求を満たす行為ではなく、五感の全てを使って、心を研ぎ澄まし、感謝とわが身の行いを律する心を持って、今ここにある幸せを感じる時間だからです。禅僧が食事の前に唱える『五観の偈(ごかんのげ)』を知って、食事をより良い時間にしませんか。

「一には功の多少を計り、彼の来処を量る」

~多くの人を思い感謝していただく~
私たちがいただく食事が目の前に提供されるまでに、いかに多くの人々の手数や、労力が費やされているか、その苦労を思うことと、私たちにふりそそぐ自然の大いなる恩恵をいただくことに感謝をします。よって、好き嫌いや食材を簡単に捨てるなど、米粒ひとつもムダには出来ないのです。

「二には己が徳行の全缺(ぜんけつ)をはかって供に応ず」

~自分の行いを反省し静かにいただく~
ただただ時間になったから、お腹が空いたから、欲求を満たすため、ストレスを解消するために食事をするのではないのです。自分の人格を完成するための尊い助けとしてお食事をいただくのです。自分にはたくさんのありがたい食物を受ける資格があるか、その食事をいただくに値する徳を積んだか?自分の行いや精神に尊さが欠けるところはなかったか?我が身、我が心を省みる時間でもあります。

「三には心を防ぎ過(とが)を離るることは、貪等(とんとう)を宗(しゅう)とす」

~好き嫌いせず、欲張らず味わっていただく~
“貪(むさぼ)りの心”をもって食事をしてはいけません。“瞋(いかり)の心”で食事に向き合ってはいけません。“愚痴の心”でいただいてはいけません。人間の三毒である“貪瞋痴(とんじんち)”の心で食事をすれば、食べ物は毒となって心身に取り込まれ、私たちの心身を養うという尊い行いとしての食事が成り立ちません。心の汚れを清め、毒を払いのけることが食物に向き合う時間です。

「四にはまさに良薬を事とするは、行枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんがためなり」

~健康な体と心を保つために良薬としていただく~
私たちがいただく食事は、肉体と精神の良薬として観じること。日々、口にするものを単なる食べ物と思うと、それに対してまずければ腹を立てたり、おいしければ貪ったり、おしんだりするようになります。日々の食物を摂ることは、飢えや渇きを癒し、肉体の枯死を免れ、心を豊かに保つための良薬と思えば、貪瞋痴の三毒の煩悩も起こらずに、平和な心持ちを持って食事をすることが出来ます。

「五には成道のための故に、いま此の食を受く」

~円満な人格形成のため合掌していただく~
私たちが食事によって心身を養う究極の目的は、人間としての道である「徳」を成就するためです。この真意を忘れて、心得が違うものとして頂き、心身を滅ぼしてしまってはいけません。何ごとも落ち着いた身と心の持ち主である自己の生命をまっとうするために「食事行」が在るのです。この目的を忘れてしまうと、単なる欲の一行為として終わってしまいます。日々の食事を、意義あるものとしていただく尊い時間にしましょう。

曹洞宗の開祖である道元禅師は、一粒の米にも自然の命が宿っているのだから、目の玉を扱うがごとく大切に扱えと教えます。食とは自然や人々の共存やつながりに思いをはせることであり、感謝する心であり、自分を省みる時間であり、修行であり、良薬であり、仏の行い(悟り)であります。

あたりまえ過ぎる食事の時間を、丁寧に大切に合掌して「いただきます」「ごちそうさま」に向き合ってみる。飽食の時代に生きている今だからこそ、本当の意味で食事を味わい楽しむことは、いかに自分が幸福であるかに気づける豊かな時間になります。その感謝で満たされた幸福感は、心身を癒し養います。そんな整い、調和したあなたがまた周囲の笑顔を導けますように。

参照文献:
『五観の偈』(大本山永平寺)
山田豊文著 『脳がよみがえる断食力』 (青春出版社)
枡野俊明 『禅シンプル生活のすすめ』 (三笠書房)


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